崇神天皇と夫餘族


      
           
○崇神天皇と異宗教

     崇神天皇は日本古来の神々を嫌っている。「是れより先、天照大神と倭(やまと)大国魂の二神を天皇の大殿の内に並べて祭る。然るに其の神の勢いに畏れて、共に住むに安からず。」(日本書紀)とある。さらに「日本(やまと)大国魂神を以て、渟名城入姫命(ぬなきいりひめ)に託し、祭らしむ。然るに渟名城入姫命は髪は落ち、体は痩せ、祭ることができなかった」(日本書紀)とある。
      崇神天皇にとって天照大神と倭(やまと)大国魂の神々は異宗教の神であることが分かる。

        ○崇神天皇と伝染病

      崇神天皇のとき「伝染病」が蔓延する。「此の天皇の御世に、疫病多く起こり、人民は死に盡(つ)きむとす(『古事記』)」とある。崇神天皇が日本列島には無かった「疫病」を持ってきたのではないだろうか。


        ○崇神天皇と崩年干支

     『古事記』には崇神天皇の「崩年干支」がある。「戊寅年十二月崩」とある。「戊寅年=318年」である。この時代には日本列島では「干支」は使っていない。干支を使っているのは中国である。崇神天皇は中国からの渡来人であろう。


        ○崇神天皇と那羅山

     崇神天皇は武埴安彦と戦う。「進みて那羅山(ならやま)に登り、之に軍(いくさだち)す。時に官軍は屯聚(あつま)り、草木を踏みならす。因りて其の山を号して那羅山という。さらに那羅山を避り、進みて輪韓河(わから河)に到り、武埴安彦と河を挟んで屯(たむろ)し、各相挑む。故、時人、改めて其の河を号して挑河(いどみ河)という。今、泉河(いづみ河)と謂うのは訛(よこなま)れるなり(『日本書紀』)とある。
     従来は「那羅山=奈良山」と解釈している。誤りである。『和名抄』に山城国久世郡に「那羅(なら)」がある。今も京都府八幡市に「上奈良、下奈良」がある。「那羅山」は石清水八幡のある男山であろう。ここから木津川(泉河)を遡り、京都府相楽郡山城町椿井に来て武埴安と戦っている。
     崇神天皇は中国からの渡来人であろう。日本へ来て瀬戸内海を通り、淀川を遡り、石清水八幡のあるところへ来る。「進みて那羅山(ならやま)に登り、之に軍(いくさだち)す」とある。そこから山城町椿井に住み着いている。崇神天皇の本拠地は山城町椿井である。


           ○崇神天皇の墓

     崇神天皇の墓は「御陵在山辺道勾之岡上也(『古事記』)」とある。従来は「山辺の道」とあるから奈良県桜井市から天理市にかけてある今の「山辺道」と解釈して、崇神天皇の墓は「行燈山古墳」に比定している。しかし行燈山古墳は「山辺の道」の下にある。しかも道は真っ直ぐである。曲がっていない。
    崇神天皇の墓は「椿井大塚山古墳」である。木津川は椿井で直角に曲がっている。道も木津川の沿って曲がっており、「椿井大塚山古墳」はその上にある。


          ○椿井大塚山古墳

      椿井大塚山古墳は崇神天皇の本拠地にある。しかも築造年代は「崩年干支(318年)」によく合っている。さらに竪穴式石室は高さが3mもある。板石を小口積みにしている。弥生時代の日本列島には無かった技術で造られている。渡来人の技術であろう。おそらく中国からの渡来人が築造したのであろう。副葬品もすべて「中国製」であるという。崇神天皇は中国からの渡来人であり、「干支」をもたらし、石室の築造技術をもたらしたことが分かる。


         ○崇神天皇と夫餘

     崇神天皇の名前は「御真木入日子印恵命」、その子は「伊玖米入日子伊沙知命」(『古事記』)である。「印恵(いにえ)」、「伊沙知(いさち)」である。どちらにも「イ」が付いている。名前に「イ」が付くのは「夫餘族」である。
     『桓壇古記』に「正州の依羅国は都する所を鮮卑慕容廆の為に敗られる所となり、憂迫り自ら裁つことを欲す。(中略)密に子の扶羅に囑(たく)す。白狼山を踰え、夜海口を渡る。従う者数千人。遂に渡り、倭人を定めて王と為る。(中略)或は云う、依慮王は鮮卑の為に敗られる所となり逃げて海に入る。而して還えらず。子弟は走り北沃沮を保つ。明年、子の依羅は衆数千を率いて海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。     『桓檀古記』大震国本紀
     鮮卑慕容廆に伐たれてその子の「扶羅、または依羅」が「数千を率いて海を越え、遂に倭人を定めて王と為る」とある。崇神天皇であろう。
     『晋書』に「太康六年(285年)、慕容廆のために襲われ破られてその王依慮は自殺し、子弟は走り、沃沮を保つ」とある。「285年」に崇神天皇は中国の大凌河から「白狼山を踰え」て渤海に出て、日本へ逃げて来る。瀬戸内海へ入り、淀川を遡って石清水八幡に来て、どちらへ行こうかと見渡し、木津川を遡っている。
     崇神天皇は「285年」に逃げて来て「318年」に死去している。